平家琵琶とは|平家琵琶の歴史・特徴

このページについて
このページは、琵琶行舎を運営する平野典子が、須田誠舟先生のもとでの稽古、参照した資料、演奏実践を通じて学んだ内容を、自身の理解に基づいて整理しているものです。
平家琵琶や平曲に関する伝承や解釈は、流派、系統、時代、奏者、資料によって異なる場合があります。そのため、ここに記す内容は、唯一の正解や公式見解を示すものではありません。
また、琵琶行舎および平野典子は現在も学びの途上にあります。特定の教えや伝承を専属的に継承する立場ではなく、多くの門下生の一人として稽古を重ねながら、学び得た内容を記録として整理しています。
平曲(平家琵琶)とは
平曲は、『平家物語』を、平家琵琶という小ぶりの琵琶を伴奏にして語る伝統的な語り音楽です。古くは「平家」とも呼ばれ、視覚障害を持つ盲人音楽家(当道座の座頭ら)によって、数百年にわたり厳格な規律のもと継承されてきました。独自の曲節で詞章を語ることで、平家一門の栄華と没落、そして武士たちの戦いと最期を無常の響きとともに現代に呼び起こす、高度に様式化された語りの芸です。
平曲の誕生-生仏と行長の伝承
平曲の起源は、鎌倉時代初期に遡るとされています。『徒然草』第226段には、信濃前司行長が書いた物語を、盲僧の生仏が語ったことが平曲の始まりである、という伝承が記されています。
生仏は、仏教歌謡である声明などの影響を受けながら、物語に節をつけて語ったと考えられています。この伝承から、平曲は『平家物語』という文学と、宗教的な声の文化が結びつきながら形を成していった芸能として捉えることができます。
ただし、『平家物語』は一人の作者によって一度に完成した作品というより、複数の物語や語りが長い時間をかけてまとめられていったものと考えられています。そのため、平曲の誕生も、ひとつの出来事としてではなく、語り、節、伝承が重なりながら成立していったものとして見る必要があります。
全盛期と明石覚一
生仏から数代を経て、平曲は一方流(いちかたりゅう)と八坂流(やさかりゅう)の二派に分かれました。
南北朝時代、一方流の伝承者であった明石覚一は、時の権力者である足利尊氏の庇護を受け、検校として平曲を語る組織と曲節を整えました。覚一の活動によって一方流は大きく発展し、平曲はその全盛期を迎えます。
現在広く知られている『平家物語』の本文の多くは、覚一がまとめたとされる「覚一本」の系統と深く関わっています。覚一本は、平曲の伝承と結びついた重要な本文であり、平曲が文字による文学作品であると同時に、声によって伝えられてきた語りの芸であることを示しています。
また、覚一によって整えられた曲節や伝承のあり方は、後の平曲の音楽的・組織的な基礎となりました。
江戸時代の展開
江戸時代に入ると、平曲は幕府の保護を受け、当道に属する盲人音楽家たちによって受け継がれました。この時代、平曲は教養と格式を備えた芸として重んじられ、江戸では前田流と波多野流の二流が伝えられました。
18世紀後半、名古屋の前田流の検校であった荻野知一は、平曲二百曲の詞章と譜を体系的に整理し、『平家正節』を編纂しました。
『平家正節』には、平曲の詞章とともに、音の抑揚や旋律の動きを示す墨譜が記されています。それまで主に口伝によって受け継がれてきた平曲の旋律を、符号によって視覚化した点で、きわめて重要な資料です。
これにより、平曲の曲節、アクセント、旋律のあり方を、後世の人々が確認するための大きな手がかりが残されました。『平家正節』は、現在においても平曲の伝承と研究を考える上で欠かすことのできない指針となっています。
音楽的構成
平曲は、伝承上「平家二百曲」と称されます。ただし、その数え方には歴史的な経緯があり、厳密には199曲とされます。江戸末期に麻岡検校が短い詞章の「綱引」を加え、二百曲としたと伝えられています。
これらの曲は、内容の重みや伝承の段階によって、大きく「平物」「伝授物」「秘曲」の三つに分けられます。平曲は単に曲目を順に覚えていくものではなく、修行の進展に応じて段階的に授けられる体系を持っていました。
平物(ひらもの)161曲
平物は、平曲の根幹をなす最も基本的な曲群です。物語の筋を運ぶ口説、しずかで哀感のある節物、合戦などの勇壮な場面を描く拾物などが含まれます。代表的な曲には、『那須与一』『実盛最期』『敦盛最期』『宇治川先陣』などがあります。平物は、平曲の基礎であると同時に、『平家物語』のさまざまな場面を語り分けるための重要な曲群です。
伝授物(でんじゅもの)28曲
伝授物は、平物を一定数修めた後に、特別な伝授として授けられる曲群です。伝授物は、内容によって次の四つに分けられます。
揃物(そろいもの)
『源氏揃』など、武士たちの勢揃いの様子を描く曲群です。
炎上物(えんじょうもの)
『奈良炎上』など、寺社の焼亡や火災に関わる場面を語る曲群です。
読物(よみもの)
『勧進帳』や『腰越状』など、漢文体の書簡や願文を語る曲群です。音を大きく引かず、言葉をリズミカルに運ぶため、平曲の中でも独特の朗誦性を持ちます。
五句物(ごくもの)
皇族や高野山に関わる、格式の高い曲群です。
伝授物の存在は、平曲が単なるレパートリーの集まりではなく、学びの段階と伝授の秩序を持つ芸であったことを示しています。
秘曲(ひきょく)10曲
秘曲は、平曲の奥に位置づけられる曲群です。平物や伝授物を修めた後、さらに進んだ段階で授けられるものとされます。秘曲には、灌頂巻、小秘事、大秘事があります。
灌頂巻(かんじょうのまき)
平家滅亡後の建礼門院に関わる曲群です。『大原御幸』『御往生』などを含み、平家一門の鎮魂を象徴する重要な部分です。
小秘事(しょうひじ)
『祇園精舎』『延喜聖代』など、特別な節回しを持つ曲です。
大秘事(だいひじ)
『宗論』『剣之巻』『鏡之巻』など、平曲の奥義とされる曲群です。
秘曲は、平曲が単なる語り音楽ではなく、段階的な修行と伝授によって受け継がれてきた芸であることをよく示しています。
現代における保存と継承
明治維新後、当道制度が廃止されると、平曲は存亡の機に立たされました。平曲を支えていた制度や社会的基盤が失われ、伝承者の数も大きく減っていきます。
しかし、平曲は完全に途絶えたわけではありません。名古屋や仙台などでは、熱心な伝承者や研究者によって、その芸が守り続けられました。
特に、明治から昭和にかけて活躍した館山漸之進は、膨大な資料をもとに『平家音楽史』を著し、平曲に関する記録を残しました。また、その息子である館山甲午も、平曲の貴重な伝承を担った人物です。
現在も、こうした先達の録音や資料を手がかりに、平曲を次代へつなぐ努力が、各地の研究者や奏者によって続けられています。
金田一春彦先生と『平曲考』
明治以降、平曲の伝承者が少なくなっていく中で、その音楽的・言語的な価値に注目し、学術的な側面から記録と保存に力を尽くしたのが、国語学者の金田一春彦先生でした。
金田一先生は、平曲を単なる古い音楽としてだけでなく、日本語のアクセントや音の流れを考える上でも貴重な資料として捉えました。平曲の曲節には、時代ごとの日本語の響きや高低アクセントを考える手がかりが含まれているとし、口説や折声などの曲節を詳細に分析しました。
また、明治以降、平曲の伝承者は激減し、昭和期には全曲を語れる人がきわめて限られる状況にありました。金田一先生は、仙台の館山甲午師から直接平曲を学びました。とくに金田一先生が重視したのは、館山師が後年に演奏法を大きく改める以前の平曲です。
館山師は、無形文化財指定の前後に、琵琶の調絃や歌の音階などを改めたとされています。そのため、同じ館山師に由来する平曲であっても、金田一先生が昭和12年・昭和32年に直接学んだ形と、その後に館山師から学ばれた形とでは、演奏法に違いがあります。
金田一先生は、後年の改訂を館山師自身の研究と工夫による一つの伝承として尊重しています。そのうえで、自身が直接受け取った改訂以前の平曲を、貴重な伝承として記録に残そうとしました。
その稽古記録と研究をもとにまとめられたのが、『平曲考』です。『平曲考』は、平曲を外側から解説しただけの本ではありません。消えかけていた声の芸を、記録として後世に残そうとした試みでもあります。
金田一春彦先生から須田誠舟先生へ
金田一春彦先生が、館山甲午師から直接学んだ平曲を『平曲考』としてまとめ、後世に残そうとした背景には、新たに平曲を学ぶ人々の存在がありました。その中の一人が、薩摩琵琶正派の奏者でもある須田誠舟先生です。
須田先生が金田一先生のもとで平曲を学び始めたことは、金田一先生が自身の研究や稽古記録を整理し、平曲の伝統を活字として残そうとするうえで、大きな契機の一つとなりました。
須田先生は、薩摩琵琶正派の奏者として培った発声、語り、琵琶の扱いを土台にしながら、金田一先生のもとで平曲の稽古を重ねました。薩摩琵琶という異なる伝統を背負いながら平曲に向き合うその姿は、現代における琵琶楽の交差と継承を考える上でも重要なものです。
現在、琵琶行舎を運営する平野典子は、須田誠舟先生のもとで平曲を学んでいます。琵琶行舎は、その学びの途上にある一門下生の立場から、平家琵琶・平曲について記録し、少しずつ発信していきます。
参考資料
金田一春彦『平曲考』三省堂
その他、平家琵琶・平曲に関する稽古資料、伝承資料、および須田誠舟先生のもとでの稽古内容を参照
